いたちなあたち(HOME) → 飼い主の長めのつぶやき → さよならフジコ
朝起きてケージを見たら、フジコの四肢が冷たく硬くなっていました。
やわらかい毛は、ふわふわでした。
可愛い目は、そのままでした。

私のせいです。

フジコはあと半年は生きられたはずです。

私がフジコの寿命を半年縮めてしまいました。

フジコのケージを新しくしてわずか3日。
フジコが居心地が悪そうにしていたのを知っていました。
昨日は、元のケージに戻そうかと思い、元のケージにペットシーツを敷いた後で
「慣れの問題よね。もう少ししたらなれてくれるよね。もうちょっとガマンしてもらおうかな。」
なんて思って、結局新しいケージにフジコを入れてしまいました。

1年越しに悩んで悩んで、ようやく決意してフジコに与えたケージだったのに。
よかれと思ってしたことが、完全に裏目に出てしまいました。

でもその「よかれ」は、フジコにとってのよかれではなく私にとってのよかれでした。

私がケージの掃除を楽にしたかったから。
私がフジコの体を洗う手間を省きたかったから。

今まで見送ってきた動物たちの状況から推測して、フジコはあと半年生きられたでしょう。
私が飼育の手を抜きたかったばかりに、フジコの「半年間」を奪ってしまいました。

現実から逃げたくて、朝からこうして日常変わりない時間を送っています。
フジコはまだケージの中にいて、まぁるくなって眠ってる。
そう思えてなりません。

でもこれは、私というフジコの飼い主がしてはいけないことです。
フジコがどうやって死んだのか、どんな気持ちで死んだのか、深く深く考えなくてはいけないはずです。

フジコがいつもと変わらずケージの中でシアワセそうに眠っていると思いたいのは
飼い主の単なる逃げであって、やってはいけないことなんです。

だってフジコの死の瞬間を考えて、フジコの気持ちになって考えられるのは
この世の中で私のほかに誰もいないから。
私だけが、フジコの奥深くまで、フジコのすぐ近くまで、寄っていけるのだから。

私には、れぱんという今でも好きで好きでたまらないフェレットがいます。
こうしている今も、れの字は私の実家の私のベッドの私の布団の中で、いたちらしく眠っている。
そう思うだけで心がほわっと温かくなります。

私がれの字に対してこう思えるのは、れの字を深海のごとく深く深く思ったから。
思いすぎておかしくなっちゃうんじゃないかと思うくらいに思って思って思い切ったから。

フジコに対しての私の思いはまだ始まってもいません。
だから、逃げちゃいけないんです。

そんなことを考えながらも、こうしてPCの前に座っていつもと変わりなく時間を進めている私。

もうケージの掃除、しなくていいんだなぁ。
ファラオみたいに最期のほうは通院・通院になる前にフジコは逝ってくれたんだな。
フジコのためにキャベツを特別に買ってこなくてもいいんだな。
他の4匹と時間差で外に出して遊ばせる手間もかからないんだな。

楽になっちゃうなぁ。

そう思った瞬間、どうしようもない悲しみが襲ってきました。

手間がかかる、ということは生きているから。

うんPがくさいのも、おしっこでケージが濡れちゃうのも、フジコが生きているから。

手間もにおいも全部ぜんぶ、フジコが生きているということだったんだな。

フジコ、お前は生きていたんだな。

精一杯、生きていたんだな。

(2012年12月11日)