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所詮はペット
ペットの一生は飼い主によって決まります。
大金持ちに飼われ、50畳くらいの広々とした部屋を「専用スペース」として与えられる猫がいれば、
その辺の公園でホームレスのおっちゃんと一緒に暮らしている犬もいます。

飼い主のお金の許す範囲内で愛されたのなら、
私はその動物がペットとして生まれてシアワセな一生を遂げたと思えます。

「所詮はペットなんだ。」

私がアメリカの親友に言われた言葉を思い出します。
彼はゲイで、HIV陽性の彼氏と10年以上生活を共にしています。
彼らには1匹の「インディア」という愛犬がいました。
11歳のシーズー犬。
HIVのため仕事ができない彼氏が、家では寂しくないようにとシェルターから引き取って飼い始めたのがきっかけ。
インディアは彼らの目的を見事に果たし、2人にとってなくてはならない存在になっていきました。

インディアを眠らせたよ。

そんな知らせが親友から電話で入ったのは1年半前です。

病気でした。 食べることができずに弱りきったインディアに、彼らが安楽死を与えたというのです。

彼らにはお金がありません。 貯金もありません。 日々暮らしていくのがやっとです。
家庭の事情で彼が飛行機で実家に帰らなくてはいけない時には、往復5万円の飛行機代を友達から借りたくらいです。
そんな彼らには、犬に手術や治療を受けさせるお金は当然ありません。

治療、という選択肢がない以上は 「ただ苦しませる」 か 「命を絶つ」 か、どちらかしかないのです。
苦しむのは見たくない。
彼らが選んだのはインディアの命を絶つこと。

お金のない人がペットを飼うなんて、という批判もあるかも知れません。
でもそれは違います。
インディアは彼らに愛されていました。

「彼女」というとインディアは分かるんだよ。 僕達が自分の話をしているって。

インディアが死んで2週間後にアメリカに住む彼らを訪ねた私に、彼氏が嬉しそうに思い出話をしました。
彼らの家には「彼」と「彼氏」、そして(なぜか)「彼の息子」の3人が住んでいます。 全員男性。
なのでメスのインディアにとっては「彼女」という単語はインディアにしか使われないことを
インディアは理解していたというのです。

ウォルマートで買う一番安いドッグフード
外を散歩することはなく、家の中とちょっとした小さな庭で動く程度
フィラリア予防薬もジステンパーワクチンも打ったことがない。
トリミングなんて経験なし。 彼氏が普通のハサミでジョキジョキカット。

インディアはそんなシアワセな毎日を彼らとすごして8年間。 11歳の生涯を終えました。
11年という犬の命が、獣医学の発達した現在においては短いものであったかも知れません。

例えそうであっても、リビングの一番見える場所に置いてある、
彼氏の手作りの写真立ての中から私を見るインディアの目はやっぱり穏やかでシアワセそうでした。

そう。所詮はペット。

でもだからこそ、限られた中でどれだけのシアワセを与えられるかが飼い主としての責任であり喜びです。

「どこで」生活しているか、ではなく「誰と」一緒にいるのか。

私自身が 「どこに住んでいるか」 よりも 「れの字と一緒にいられること」 が重要であるように、
れの字にとっても「どこで」クックル遊んでいるか、よりも、
「私と」追いかけっこできているかということが重要であってほしい。

公園や橋の下で体が汚れた犬であっても、ホームレスのおっちゃんと一緒にいられることが
その犬にとっての喜びであれば、私はその犬がとてもシアワセな毎日を送っていると思えるのです。

所詮はペット。
でも大事なペット。

私はれの字にどれだけのシアワセをあげられるのかな。
そして私はれの字からどれほどのシアワセをこれからももらえるのかな。

そうそう。 インディアを失った彼らは、またしょーこりもなく小型犬の雑種をシェルターから引き取って育て始めました。
名前はJM (ジェイエム)。
彼らの家からまた犬の鳴き声が聞こえるようになりました。

JMに会いにまたアメリカに行こうかな。

※ JMや彼らの写真は、「あたちのおでかけ・2006・
飼い主のアメリカ旅行」の中にあります。

                                                         2008年2月28日